坐禅の実践は禅仏教の核心です。約2600年前、シッダールタ・ゴータマは存在の探求に導かれ、この大いなる宇宙世界の中での自らの生の現実に目覚めました。そのため、彼は「ブッダ(仏陀)」と呼ばれるようになりました。サンスクリット語で「目覚めた者」を意味します。その後、彼は生涯をかけて、この悟りの理解を伝え続けました。こうして、代々、祖師から祖師へと、坐禅の実践は絶えることなく受け継がれ、今日に至ります。
坐禅(ざぜん)とは、身体を坐る姿勢に保つこと、そして坐ること自体を指します。この実践における精神的な態度は「只管打坐(しかんたざ)」と呼ばれます。それは、あらゆる思考から自らを解き放ち、ただ坐ることを意味します。他の精神的な修行とは異なり、坐禅の実践には何らかの精神的な支えや、特別な状態に到達するためのイメージングは必要ありません。
只管打坐は曹洞宗の中心的な概念です。この宗派の開祖は道元禅師です。1223年、道元禅師は禅の源を求めて中国へ長い旅をしました。そして師と仰ぐ人物のもとで修行を積み、只管打坐の体験をしました。この深い悟りの体験が、彼が日本へ帰国した後の教えの礎となりました。
日常生活において、思考という機能は、もちろん貴重な道具です。私たちはそれを用いて分析し、計画を立て、他者と意思疎通を図ります。しかし、それが世界を知覚する唯一の手段になってしまうと、私たちは終わりのない思考の流れに閉じ込められます。この過剰な思考活動により、自分が「思考そのもの」であるという錯覚が生まれます。そして、心の世界に閉じこもることで、私たちは自分自身と外の世界との間に隔たりを作ってしまいます。この隔たりが、自分自身や他者へのさまざまな苦しみを生み出します。こうして、私たちは生涯を通じて、自らが生み出した「欠如」を埋めるために、外の世界に答えを求め続けてしまうのです。
坐禅の姿勢では、身体は静止し、緊張なく、呼吸は自由に行われます。思考が自然に流れ去るのを許し、内なる対話を手放すことで、心は静まります。道元禅師は「決して揺らぐことなく坐る」と述べています。それは、動かぬまま、目覚めた存在であるということです。
坐禅の実践がもたらす自然な影響のひとつは、生命の本質的な次元とのつながりを取り戻すことです。これは、理論的な思考による理解ではなく、直接的で概念を超えた生命の体験です。私たちは、さまざまな形や思考があるにもかかわらず、根源的には同じ本質を共有していることに気づきます。
たとえ坐禅のひとときが短いものであっても、その積み重ねによって、日常生活の中で少しずつ、より本物の「今ここにあること」を育んでいきます。それは、自分自身との関係を深め、他者とのつながりをも豊かにしていくことにつながります。これは、私たちが本来の自己へと再びつながる、繊細でありながらも力強いプロセスなのです。