Author: kosencaroleservan@gmail.com

禅道場で初めて梅花のセッションに参加した。到着すると、小さなサンガが温かく迎えてくれたのを感じた。 迎えるということは、単なる行為ではなく、互いに与え、受け取る空間を生み出すことでもある。そのやりとりの中で、何か本物のものが働いている。私は伝えたかったものを精一杯届けることができたが、それを受け入れてくれたサンガの皆さんのおかげで、 私は自分の想いを最後まで全うすることができた。 その日、彼らにとってもすべてが初めてだった。初めて聞く詠讃歌、その意味を理解すること、楽器に触れること、新しい楽譜の読み方を学ぶこと。しかし、彼らの温かい心がすべてを可能にしてくれた。なぜなら、「迎える」とは、受け入れる心を持つことでもあるから。 このシンプルなやりとりは、今でも深く心に響いている。この場所が梅花の実践にとって、花開くきっかけを与えてくれたことを嬉しく思う。...

日本で初めて長期間の修行のために仏教寺院に滞在したとき、私は梅花流詠讃歌に出会った。 その日、村を見下ろす山の上に佇む寺の中庭に、小さな軽トラックが到着した。降りてきたの 、みな同じように腰の曲がった年配の女性たちだった。 彼女たちは、大きな法要の準備を手伝うために来てくれた。今日は、先祖、禅の祖師方、そして大いなる導師である釈迦牟尼仏を讃える日だったからだ。 それぞれが自分の役割を見つけていく。台所では、年老いた手が楽しそうに、そして真剣に、何度も何度もおにぎりを握っている。ほかの人たちは掃除に励み、誰かは花を活ける。僧侶たちは儀式の会場を整え、また別の僧侶たちは最後の稽古に余念がない。 時が来た。大きな鐘の音が境内に響き渡り、皆が儀式の会場へと向かう。僧侶たちが読経を始め、私もその声に加わった。村の女性たちは静かに座り、敬意をもって儀式に参加する。私たちは心をひとつにして唱えた。 香を焚き、花を供え、心を込めた供物を捧げる。そして何より、自らの存在そのものをもって、私たちは感謝の気持ちを表す。命とその尊さを受け継いできた人々への敬意を込めて。 同じ言葉を話せなくても、それは何の障害にもならなかった。それこそが、私たちが分かち合うものの本質だった。それは目には見えない絆であり、私たちが最善を尽くすとき、自然と花開くものなのだ。 ふと、静寂の中に、一人の僧の澄んだ繊細な声が響き渡った。私はその声の主を探し、気づけば目が潤んでいた。 初めて耳にするその旋律は、今日一日を共に過ごした時間と深く共鳴し、心の奥底まで響き渡った。 それ以来、私は梅花を実践し、そして大切にしながら、伝えていきたいと願っている。...